投稿者「システム管理者」のアーカイブ

弟2回 帰ってこい藤宮タク2019 -ルート狂愛-

燭台(怪)presents『弟2回帰ってこい藤宮夕ク-ルート狂愛-』
2019年10/5(土)
@本八幡ルート14
open_未定/start_未定
adv_羊2,500(+1d) / day_羊3,000(+1d)

出演
メインステージ┐
真剣に解散を考えている。
燭台(怪)

サブステージ┐
and…

※会場内禁煙

⇒前売り予約
※メールが立ち上がらない場合はsyokudai-kakkokai◇hotmail.co.jp(◇→@)までご連絡下さい

ブチャラティ(顔がない)

藤宮タクさんへ手紙を書きました。
聞いてください。

幾千の出会い別れ全てこの地球で生まれてすれ違うだけの人もいたね わかり合えないままに。
慣れない街の届かぬ夢に 迷いそうな時にも暗闇を駆けぬける勇気をくれたのはあなたでした Fu…(フ酸)

絶え間なく注ぐ愛の名を 永遠と呼ぶ事ができたなら言葉では伝える事が どうしてもできなかった愛しさの意味を知る

あなたを幸せにしたい…
胸に宿る未来図を悲しみの涙に濡らさぬ様 紡ぎ合い生きてる

ハウエバーっていい歌詞DA.YO.NE

また逢いたいYO…

ブチャラティ(顔がない)

猫灰田らけ(解散レコードスタッフ)

私が初めて藤宮さんと出会ったののはバンドスタッフ処女日、本八幡ルート14である。
「マグノリア」というバンドのVoの友人として来ていた藤宮さん。この人もバンドやってるんだよ!って紹介されて、名刺を貰ったのが初めての出会いでした。第一印象は不思議な人だな、だったと思います。それからその名刺に書かれたHPを見てUMというバンドを見に行きました。こちらも第一印象は不思議なバンドだな、だったと思います。不思議だったんですけど、なんかちょこちょこ見に行ってたんですよ、お客で。なんででしょうね。そうこうしているうちに、「マグノリア」は活休し、単発のスタッフ業をしながら「THE VELVET 」のスタッフに落ち着きました。そしたら今度はUMが5周年(だと思う)で活休になったんですね。だから見に行ったんですよ、悲しいけど活休前に見ておかなきゃって。そしたらですよ、そこで「今度ニニってバンド始めるからスタッフしてくれない?」って言われたんですね。口説かれたんですね。しかし私は「THE VELVET」の女…じゃないです、スタッフです。浮気は良くないと思ったんですが「月1くらいだからさ」って口説かれたんですね。じゃあ…って「ニニ」って解散レコード所属のバンドのスタッフを始めたんですね。浮気ですね(その後ロクダマカルタにも浮気をする尻軽だとは言わせませんよ/笑)。そしたらですよ、「次回は「真剣に解散」なんだけど来れる?次回は主催なんだけど来れる?」って、なんか「ニニ」じゃないモノが増えてったんですね。。。よくよく解散レコードのHP見てみたらバンド数スゴいじゃないですか、やってないのもあるけど。。。で、ついに。
「この日からUMやるからスタッフね」
ついに「UM」のスタッフです。
ズブズブと浮気から泥沼にハマっていったんですよ(笑)すっかり解散レコードの飼い猫ですよ。。。
してやられました(笑)
しかしながら解散レコードのお陰で色んな人との出会いがあり、色んな世界を知り、今の私があると思うのです。藤宮さんと出会わなければ、こんなに沢山の人達と不思議な世界と関わる事はなかったと思います。ありがとうございます。そして、そろそろ帰ってきてください(笑)

Ruri (guitarist)

筆不精な私が文を纏めるのも難しいですが
多角性に富んだ氏と自身が一番交流があったものがやはりギターというもので
数々の場面で藤宮氏(Lch)⇔私(Rch)という形で携わらせて頂きました

ポピュラーミュージックという枠組みですが
楽曲におけるコードやフレーズ リズム
機材の扱いにいたるまで

お互いに感化されことばの無い意見交換をタクさんしていましたね

解散は解散しているといつも思いますけど
型破りであったり枠組みに囚われないという それもあくまで一般論ですが
生き方を良く体現して居たように 今も変わらずそのスタイルであるとは思われます

重複になりますが
誰かが決めた
現在と過去を区別しているわけでもなく
何も変わらず日常をそのまま生きているような

私としては じゃあ今から これ弾をこうよってなれば それはもういつでも

『藤宮タク氏はカタ屋と変わらないのではないか』市松人形師 岩村亮

藤宮タク氏と出逢ったのは、かれこれ15年以上前である。出逢ったのは私の地元のライブハウス、本八幡ルート14である。

当時の僕は、長いローディ生活を終え、千葉に戻り地元のツテもなくたまたま入ったバンドのメンバーとそのライブを見たとき僕は腰を抜かした。なにをやっているのだ、この人たちは。と。

そう。私はビジュアル系しか知らなかったのだ。

長い年月を経て、私は、小島ホーデン氏と知り合った。当時泣かず飛ばずで解散したバンドの後、彼とバンドを組もうと言う構想があった。それが「見たら死ぬ」である。

見たら死ぬの初ライブは、2011年の無善寺であった。そして、とても久しぶりに彼にあった。藤宮タク氏である。初めて彼とゆっくりお話したのはその時が初めてであろう。残念なことに僕はそのライブ後の打ち上げで怪しい中国人がやってる店のレバ刺しを食いすぎて北国分の一条会病院に入院した。

その後、私は燭台(怪)に加入し、1年近くベースを弾き脱退。その期間にも無善寺ロックフェスや雨降るfesなどのイベントに参加をし、彼との交流は勿論あった。

燭台(怪)を脱退してから、程なくして、地元の縁のあった仲間たちで結成していたバンドyazzmadに合流した。このとき自分の音源のCDをはじめて藤宮さんに差し上げた。とても褒めて下さり光栄であった。二年後、家庭の都合でハイペースなバンド活動を諦めることとなりyazzmadを脱退した。

この頃もうベースは弾くことはないと思っていたが、藤宮さんからのオファーがあり、生アムでベースを弾かせて頂けることとなった。今は亡き神楽坂エグスプロージョンの年越しのカウントダウンアクトという忘れもしないライブであった。また生アムのラストライブにもオファーを頂いたが椎間板ヘルニアの悪化により参加できなくなってしまったのが今まで心残りである。

それから彼は姿を消した。
なぜだ、まさか、カタ屋だからか?
せっかくきれいに着色できたカタをもっていって新しいカタを手に入れようと思っていたのに!そんな気持ちになっていた。

彼の周りには不思議とキャラの濃い方々が集まっていた。彼の人望なのか何なのかわからないオーラに惹かれていたのだろか。私はその方々とのお付き合いはバンド活動を終えてから今までずっと続いている。

また彼に会えるときを心待ちにしているフアーンもバンドマンも変な人も沢山いるだろう。

なので、彼の残した財産を今使うときである。

帰ってこい藤宮タク。

市松人形師 岩村亮
(見たら死ぬ、ex.燭台(怪),yazzmad,As if in the darkness)

寄稿のお願い

さて、突然で恐縮ですが、このほど私たち「帰ってこい藤宮タク.com」では、『私と藤宮タク』をテーマに皆様の玉稿を賜りたくお願い申し上げます。

お受けくださる場合は、原稿の枚数は四〇〇字詰めで五枚、原稿料は1枚0円でお願い申し上げます。

ご多忙の中、恐縮でございますが、お名前と文章を同じメールにて、下記のメールアドレスまで原稿ご執筆お願い申し上げます。

syokudai-kakkokai@hotmail.co.jp

燭台(怪) 蜻蛉

いつもいつまでもお世話になっております、燭台(怪)の蜻蛉です。

世界的に有名なレーベル「解散レコード」代表の藤宮タクと初めて出会ったのは厳密にはいつだっただろうか。
結構真面目に調べてみたところ2003年5月27日の江古田ドロシー「弟22回 フちゃんの誕生祭」でした。
15年以上前かよ…当時私は早稲田大学ヴィジュアル研究会に所属しており、そのサークル友達に連れてきてもらったんだな(バンドやってた子)。黒髪(現・真剣に解散を考えている。)で作家の架神さんが大学の先輩だったってこともあって一回見に行ってみるかーって軽いノリで。
まだ10代の少年カゲロン…超バンギャル男時代だけど、所謂普通のV系のライブしか行ってなかったので、なんだかよく分からないシュールなイベントに衝撃を受けた気がする。正直楽しかった記憶は殆ど無い!笑

アム(この時はまいくさんがボーカルじゃなかったんだな)、フちゃんの黒髪文化祭(真剣に解散を考えている。の全身。てかこの日に真剣に改名)、ゐんちき、なま×2破廉恥Jr.、マモノが出演…これは滅茶苦茶覚えてるわ。
藤宮さんはあんまりフレンドリーじゃないので(笑)、印象はイマイチ良くなく、それと対比するかのようにまたりかさん(現・燭台、真剣)がフレンドリーにニコニコしていたことを記憶している。

そんなに楽しくなかったくせに、何故かその後、7月21日の新宿ペンタでの「黒髪ロックフェスティバルVol.6~山田、BANDやろうぜ~」に行く(多分この前に無善寺にも行ってるわ)。
この企画は藤宮さんはじめ解散レコード界隈(当時はアム界隈と呼ばれていた)皆の人間性を疑うような本当に酷い企画で、色々フォローしながら書かざるをえなくなり超長くなるので割愛(笑)。

その後9月1日&10月1日と立て続けに大久保水族館でのイベントへ。
30分間延々とメガネの歌を聞かされたり(只管メガネをかけたり外したりしてるだけの映像がフル収録されてるビデオもあったな)宅八郎やエーツー、国、ももぴえさん等、今迄のバンギャル男時代をひっくり返すような人達のライブも見て、「良いってなんだろう」「面白いってなんだろう」というごちゃまぜの気持ちが私の中で暴れていて、だいぶ感覚はおかしくなってきた頃…。
そしてスタジオだったり飲食店だったり公園だったり無善寺だったりと、ライブとはライブハウスでやるものであるという概念を覆すようなイベントの数々に私はだんだん興味を持っていきました。
もっというと「ライブ=音楽をやる」と決まっているわけではない、もっと自由で良いんだってのを嫌というほど思い知らされた瞬間でした。

そんな中だ、私もいよいよアム界隈に足を突っ込む出来事が。
大学の先輩である架神さん達とサイクロプスというジャンプ狂愛バンドを結成することになり2005年4月11日のアム主催で遂に対バンすることになった(この時はVoはもうまいくさん)。
因みに対バンはアムの解散、サイクロプス、じゅげむ、空想革命、宅八郎、エーツー、国、小笠原美佳、ザ!ナメックバスターズ(緑塗将棋ユニット。枝豆マンのヒントは此処から貰っている)というクレイジーな面子!笑
中高時代は何度もライブハウスのステージに立ってきた蜻蛉さんでしたが、ブランクがありすぎて、そしてもう既にファミリ―的な輪が出来上がってしまっている中にいきなり入るわけで、最高に緊張!
アムの二人に挨拶しましたが、イマイチな感じで…笑。藤宮さんはもう何度も会ってたからまだアレでしたが、当時はまいくさんの感じも悪すぎて!爆笑。

そして私もファミリーになりたい!と決定付けたイベントが2005年8月14日のアム主催「弟2回 ルート狂愛」である。
このイベントは今思い出しても完璧だといえるくらいの内容でサブステージは勿論、ルートのトイレまでもルート13としてステージにしてしまうという画期的な企画。
対バンも最高に良くてアムの解散、イビルキック、Kharn、kehre、ファントロノゥム、モノラルカーヴ、架神恭介、ルート劇場feat.藤野哲也(ルート14店長)、空想革命、顔がない、マリ&リンマンションというV系あり、白塗あり、ギャルバンあり、なんだか分からないバンドあり、トークやお笑い、弾き語り、最終的にはライブハウスの店長までも出演し、その日作った「ルート狂愛ラブソング」まで無配されるという夢のようなイベントだった。
因みに当時住んでた家はルートの近所だったので、ルート14は何度も足を運んでたライブハウスであり、そこも含めてこのイベントが一番印象に残ってるんだと思う。
私はこのイベントが100点だと思っているので、自分でストレートではないイベントを企画する時にいつもこのイベントのDVDを見返して思い出すようにしています。

このイベントの後からだ。もう何かにつけてアムに関わろうと勝手にローディー的にくっつきだしたのは…。ワシもアム界隈の仲間になりたいと!
追いかければ追いかけるほど、アムの曲の格好良さやイベントの面白さ、界隈の人達の楽しさ優しさに惹かれていったんだなあ。
でも藤宮さんもまいくさんも当時あまりフレンドリーでは無かったので、私は架神さんやまたりかさんに頼りっきりでした。
後は顔がない(デスさんも居たよ)やファントロノゥムも仲良くしてくれたなあ(皆世代も近かったしね)。
そんな感じでずっと弟子にしてください的にくっついてたら、ある頃からステージで風鈴やってとか荷物手伝ってとか言ってもらえるようになり凄く嬉しかったのを覚えている。
無善寺のステージで風鈴振るだけでもしくじったらどうしようって汗が止まらなかったな苦笑。

この辺の頃からもう二人の印象は変わっていおり、言葉数は少ないけど藤宮さんは優しかったし、まいくさんは色々世話を焼いてくれていました。
それから社会人になって茨城に引っ越した後もサイクロプスのライブでアム主催に参加したり、半年くらい四国に居た時もアムのワンマンには飛行機で駆けつけたり(半ば脅し的だった笑)と結構無茶をしましたね。
この時代のアムのライブは殆ど行ってるんじゃないかなあ。

そんなある日、藤宮タクから来たメール…「主催イベントをやるので、蜻蛉君のバンドで出てほしいのですが」。
この言葉が私の運命を変えました。2007年4月7日、燭台(怪)の結成。そこから紆余曲折ありましたが新宿ロフトでのワンマンも大成功させ、一時期程の勢いはありませんがまだ今も楽しく続いています。
分からないことは全部アムに教えてもらいました。自分達では出来ないこと沢山助けてもらいました。感謝してもしきれないくらいです。
本命とかそういう基準で測れない私にとっては特別なバンドです。
アムを親に例えるのはこういうところからなのです。そしてアム界隈も家族だったり親戚みたいな関係だと思っています。

長くなりすぎたけど(そして結構話は逸れたけど)、こんな感じで私は人生の半分近くの凄く大切な時間を藤宮タクと過ごしたわけです。
中高校のバンドやってた頃の青春時代とはまた全然違う、第二の人生のスタートが藤宮タクとの出会いでした。
考え付かないことばかり起こるステージ、ジャンルもルールも関係無い。
そして実験的なこと…試行錯誤は忘れない!本人は試行錯誤とは思ってなかったかもしれませんが…

2019年度、燭台(怪)は12年を迎えアムの寿命を超えます。今迄藤宮タクが行なってきたような今世紀最大規模の優しくて紳士的でちょっと強引なアットホーム意地悪イベントを企画しても良いかなと思いました。藤宮タクにはなれませんが藤宮タクならこうするだろうと思われるイベントを解散レコード界隈の仲間達と勝手にやります。
当時を知ってる人には懐かしいって思ってもらいたくて、知らない人には当時の楽しさを伝えたくて。
アムが解散した江古田ドロシーの燭台イベントでは私はタイムマシンを作ったつもりでしたが、この「帰ってこい藤宮タク」イベントは今を生きる解散レコード界隈を。
皆で盛り上げていければまたタクちゃんがひょっこり戻って来てくれるかも…その一心でこれから藤宮タクが現れるまでこのイベントを続けます。
アム解散の日、藤宮タクからは「蜻蛉君を含めてアムだ」って言ってくれました。
だからこの界隈をもう一度蘇らせたいと思います。
理解し難いものや、PTAから批判されそうなものも出てくるとは思いますが皆さんは感じたコトの中から細心の注意を払って「良いコトだけ」を抜粋して今後のイベント感想を教えて下さいね!ではせいぜい頑張りたいと思います!

燭台(怪) 蜻蛉

Rekai

タクさんを初めて知ったのは、もう20年近くも前になります。

わたしはまだほんの子供で、バンド界隈の世界にも入りたて、ぴよぴよしながら楽屋の隅で挙動不審に陥っているのが常な頃でした。

ステージを終えて楽屋に戻ってきたタクさん御一行を見て(当時のバンド名は忘れましたが、完全パンクマニュアルの架神恭介君が居ましたので、勿論)完全にヤバい悪ノリ集団だ、と思ったのが、第一印象です。

メンバーは体中ガムテープでぐるぐる巻き、ステージは何をやったのか知らないけれど大量の髪の毛だらけ(おそらく散髪)、何故か着ていたTシャツがライブ後にビリビリに裂けていたギターのひと。
それがタクさんでした。

他の対バンのお兄さん達も、あの人たちはやばいからね、特にあのギターの藤宮って人が中心だから、関わらない方が良いからね、と教えてくれたので、身も心も思いきり距離を取ったことを覚えています。

それから半年ほどが過ぎ、友人に連れられて行ったはじめてのビッグサイト、はじめてのデザインフェスタ。可愛い手作り小物でも見てキラキラした時間を過ごそうと浮き足立っていたわたしの目に、くっきりと周囲から浮き出た、血まみれの白衣を着た禍々しい集団のブースが飛び込んできました。
「げっ、なにあの人達、気持ち悪い」
そう思ったわたしは、そのブースからかなりの膨らみを持って避けて通り、足早に通り過ぎようとしました。
その時です。
血まみれブースから顔面まで血に塗れた、血の部分以外は青い顔のお兄さんが思いきり身を乗り出し、「おーい、リカちゃーん(当時の芸名)」とわたしを呼び止めたのです。
大いにビクッとしておそるおそる振り返ると、そしてよくよく見ると、それは、タクさんでした(顔が青いのは自前でした)。
げげげ、知り合いだった、しかもあの、やばいと話題の藤宮さんだった、と思いながら二言三言会話をし、そそくさとその場を後にしました。一緒にいた友人には、あの人たちは何でもないのと、よく分からない言い訳をしてしまいました。

それから更に数年が過ぎ、
わたしの当時組んでいたバンドが解散し、次の活動予定もこれといって無く、シンプルに音大生として、クラシックだけを歌う日々がやってきていました。

よく考えたら、わたしにはバンドなんて派手な世界は向いていない、こうやって、地味だけれどこつこつと楽譜と向き合って、地道に研究する毎日こそ、自分には合っているのだ。
そう思いかけた矢先の事でした。
殆ど放置していた、以前のバンドのメールアドレスに、タクさんからメールが届いていたのです。

メッセージのタイトルは「真剣に解散を考えています。」。

そうなのか、解散するのか、ラストライブはさすがに観に行くべきかななどと思いを巡らせながら本文を開くと、

「真剣に解散を考えている。」という名前のバンドを始動する旨が書かれていました。やはり悪ノリの人、こういうノリまじで面倒臭いわーと思いながら読み進めていくと、さらにもうひとつ、他のプロジェクトをベースと2人で始めるので、そこにサポートボーカルとして加わって欲しいという依頼も含まれている事に気が付きました。それが後のUM-アム-となるプロジェクト、アムの解散でした。

わたしは大いに迷いました。何せ相手はあの藤宮タクです。何がやばいのかはっきりは掴めないのに確かに何かがやばい、藤宮タクです。

一週間程ぐるぐると思い巡らせた挙句、段々と悩むのも面倒臭くなり、結局わたしは、比較的軽い気持ちで、依頼をを引き受ける事にしました。
サポートボーカルであるのだし、機動力向上の都合から、ひとりしか正式メンバーは採らない旨聞いたという事もあり、正式メンバーにはベースの人が既に決まっていましたから、そこまで気負わなくて良いだろうと。

しかしそこで、しっかりと気負うべきだったのです。ベースの人は最初の3ヶ月程で鬱々としはじめ、俺は芸人になると突然言ったのを最後にスタジオに来なくなり、脱退してしまったのです。玉突き式に正式メンバーになったわたしは、あれよあれよとライブを重ね、あれよあれよと場数を踏んでいくことになったのです。

そうやって時間が経つうちにわたしは、
こうなったらもう腹を決めて、と思うようになりました。
こうなったらもう腹を決めて、この藤宮さんというひとと一緒に音楽をやっていこう、そして出来るだけ、今よりもこのアムを、わたしのやりたい音楽性に引っ張っていこう。そんな野望も芽生え始めたのです。
けれどもまさか、同じような野望を、タクさんも持っていたなんて。

それから解散まで、お互いの行きたい音楽の方へお互いをひたすら引っ張り合い、2人で半々に作っていたアムの楽曲は、ファンが綺麗に真っ二つに別れ、わたしもタクさんも殆ど譲らないまま、気が付けば12年近い月日が流れてしまっていました。
活動11年半目の春、いよいよタクさんから解散しようと告げられた時の、その理由はまさに、音楽性の違い。10年以上も一緒に活動しておいて、まさか音楽性の違いで解散することになるなんて。

こんなふうに書いておいてあれですけど、タクさんと12年間、音楽のぶつけ合い、楽しかったです。わたしは。

切磋琢磨ってきっと、こういうことだったのよね。と思うのです。